散歩 [歩景]
「散歩雑景」
〔01〕
越後国「高田」、
城下町の通りは江戸に向かう南が上(かみ)で一丁目、
北が下(下)で町名の数字が大きくなります。
碁盤の目状に整備された道で区切られた町は、
東から西へ、大町、本町、仲町、寺町と並び、
大町は一丁目から五丁目、
本町は七丁目、
仲町は六丁目、
寺町は三丁目まであります。
町数の多い少ないは、
私の推測では面積の大小と、
自治活動を行うに都合のよい戸数にするためだと、
私は勝手に推測しています。
〔02〕
その寺町通りを、
下から上り歩きますと、
小体な社の前に差し掛かります。
四十年近く前、
今の住居に越してきてから、
この社の前は数えきれないほど通っています。
「寺町」に在りながら、
少々雰囲気と趣の違った建物、
建立した時とは全く違った場所に建っていると思われるその社、
何かしら感じ入る空間がそこに在ります。
折角カメラを携えての散歩、
しかも、この朝は、フルサイズセンサーの一眼レフカメラに、
望遠ズームのセットですから、
肩の負担を感じながらの散歩です。
「歩くこと」、
「写真を撮ること」、
その二つを両立させることは、
私にとっては難題であります。
自宅を出てから約一キロ、
歩くことに夢中になっていますから、
何処かで写真へと想いを向けなければなりません。
こうした状況では、
とりあえず何でも良いからシャッターボタンを押す、
その行為が写真へと気持ちを向けるスイッチになります。
この場面でも、
写真へと気持ちを切り替える為にも、
「先ずは一枚」との想いから撮影した写真であります。
〔03〕
「長音寺」
「じょうおんじ」と読みます。
如何にも良い響き、
「長」を「じょう」読むところに、
日本の漢字の感性に浸ることができます。
〔04〕
「しうんざん」と読むのでしょうか。
こちらもまた趣のある字面で、
口に出して読んでも良い響きです。
〔05〕
「南無、南無、南無」、
全てを託す祈りです。
〔06〕
小さな花、
路傍の花、
供養の心。
〔07〕
「善導寺」(ぜんどうじ)に辿り着きました。
こちらの寺院ではこれまでにも何度か訪れ写真を撮っています。
その山門に立つ仁王像。
鳥除けの網の向こうから、
じっと私を見ています。
その眼差しに、
私の心は何もかも見通されているようです。
〔08〕
半眼の視線は、
涼やかな目。
〔09〕
剥げ落ちる手の肌、
その小さな手に纏う仏具。
〔10〕
足と手の指先。
手にした宝珠の鈍い輝き。
着物の文様。
この三枚の写真は、
網入りガラス越しの撮影で、
その網目を掻い潜っての撮影で苦労していますが、
その苦労が楽しみでもあります。
〔11〕
山門の柱に供えられた花。
朝陽を受けて輝きます。
〔12〕
鋭い眼差し。
強い眼力。
〔13〕
強い意志を感じます。
〔14〕
枯れゆく花。
光と影。
光りの受け止め方で、
随分と写真の印象が変わります。
〔15〕
「天宗寺」(てんそうじ)。
謂れのある寺ですが、
知識として備わっていません。
〔16〕
やさしい眼。
やわらかな表情は、
すべてを受け入れる包容力を持ち合わせているよう。
〔17〕
真宗大谷派「高田別院」 山門。
去年は改修工事を行っていました。
工事が終わったら一度見に行こうと思っていて、
この朝訪問することが出来ました。
山門斗供と欄間の木彫りの意匠。
その造形を光と陰で捉えてみました。
〔18〕
たくさんの彫り物があります。
眺めていると飽きることがありません。
〔19〕
たくさんの写真を撮りましたが、
上手くとらえることが出来ませんでした。
〔20〕
寺町通りを上り切り、
左に折れ、
仲町通り、
本町通りの突端を突っ切り、
大町通りへ向かいます。
先の通りと直角に走る南本町通りの雁木、
朝陽に柱の影がきれいに落ちていて、
その姿に目を惹かれますが、
その影が落ちた床は、
嘗ては多く、
地元で採れる石が敷かれていました。
近年下水道の工事で、
ほとんどの雁木がこうした一様のコンクリートとなってしました。
表情の薄い衣装となってしまいました。
〔21〕
大町通り上の突端。
小さな祠の、
小さな石仏。
*
この朝の散歩、
この写真を撮った後、
大町通りの下の端まで歩きました。
寺町通りと大町通りを歩き尽くすことが出来ました。
歴史ある町の通りを、
目的を持って歩くという思い付き、
この日は遂げることが出来ました。
〔22〕
朝の散歩を終え、
時間を持て余していて、
天気の良さに誘われ、
午後に再び町へと散歩に出掛けました。
午後は本町の「下」辺りを歩きました。
本町は高田における古くからの商店が並ぶ町、
その中心は三丁目から五丁目。
本町の「下」はかつて繊維などの問屋が数多くあった町で、
現在もその名残の古い町家が残っています。
その一軒は現在町家交流施設として、
古い面影を残しながら改装され、
時折小さなコンサートなどが催されています。
観光客も自由に見学できる施設となっていて、
私もよく散歩の途中に立ち寄ります。
〔23〕
雛人形。
嘗ては繁栄をした商家ですから、
この町家に飾られていた雛人形は、
もっと立派な人形だと思われるので、
この町家に謂われのある人形ではないと思われますが、
小体な人形が床の間に鎮座していました。
三月の景色として目を惹きます。
〔24〕
天気が良かったので、
夕暮れに、
家族三人で再び散歩に出掛けました。
この日三度目の散歩です。
途中まで、
この朝歩いた道を三人で歩きます。
寺町通りへ通ずる道の脇に立つ工場の屋根に、
娘がちょっと人相の悪い顔に見える小屋を見付けました。
通るたびに見てはいたのですが、
こうした発想は思いつくことがありませんでした。
家族三人の散歩は色々と話しながら歩きます。
重いカメラを携え、
被写体を探して歩く散歩とは違い、
心に温もりを感じながら歩きます。
三月十二日(日) 撮影
八ヶ月前に撮影した写真です。
書きかけの記事を、
地元で採れる石が敷かれていました。
近年下水道の工事で、
ほとんどの雁木がこうした一様のコンクリートとなってしました。
表情の薄い衣装となってしまいました。
〔21〕
大町通り上の突端。
小さな祠の、
小さな石仏。
*
この朝の散歩、
この写真を撮った後、
大町通りの下の端まで歩きました。
寺町通りと大町通りを歩き尽くすことが出来ました。
歴史ある町の通りを、
目的を持って歩くという思い付き、
この日は遂げることが出来ました。
〔22〕
朝の散歩を終え、
時間を持て余していて、
天気の良さに誘われ、
午後に再び町へと散歩に出掛けました。
午後は本町の「下」辺りを歩きました。
本町は高田における古くからの商店が並ぶ町、
その中心は三丁目から五丁目。
本町の「下」はかつて繊維などの問屋が数多くあった町で、
現在もその名残の古い町家が残っています。
その一軒は現在町家交流施設として、
古い面影を残しながら改装され、
時折小さなコンサートなどが催されています。
観光客も自由に見学できる施設となっていて、
私もよく散歩の途中に立ち寄ります。
〔23〕
雛人形。
嘗ては繁栄をした商家ですから、
この町家に飾られていた雛人形は、
もっと立派な人形だと思われるので、
この町家に謂われのある人形ではないと思われますが、
小体な人形が床の間に鎮座していました。
三月の景色として目を惹きます。
〔24〕
天気が良かったので、
夕暮れに、
家族三人で再び散歩に出掛けました。
この日三度目の散歩です。
途中まで、
この朝歩いた道を三人で歩きます。
寺町通りへ通ずる道の脇に立つ工場の屋根に、
娘がちょっと人相の悪い顔に見える小屋を見付けました。
通るたびに見てはいたのですが、
こうした発想は思いつくことがありませんでした。
家族三人の散歩は色々と話しながら歩きます。
重いカメラを携え、
被写体を探して歩く散歩とは違い、
心に温もりを感じながら歩きます。
三月十二日(日) 撮影
八ヶ月前に撮影した写真です。
書きかけの記事を、
この数ヶ月少しずつ手を掛け、
文章を書き直したりしていましたが、
自宅でもパソコンに向かい仕事をしているので、
ブログの記事に手を掛ける事もなくなりました。
まだまだ仕事という深い沼の奥底に沈み込んでいて、
なかなか浮上できずにいます。
泥沼で藻掻き、
上を眺めてみても空の明かりさえ見つけ出すことができません。
この度の深い潜行、
いつになったら浮上することが出来るのか、
自分でも分かりません。
ブログの再開どころか、
趣味の写真を撮る事も出来ない元所であります。
来春には仕事も落ち着くと思われます。
長い冬を越えたら再開したと思っています。
寂光
文章を書き直したりしていましたが、
自宅でもパソコンに向かい仕事をしているので、
ブログの記事に手を掛ける事もなくなりました。
まだまだ仕事という深い沼の奥底に沈み込んでいて、
なかなか浮上できずにいます。
泥沼で藻掻き、
上を眺めてみても空の明かりさえ見つけ出すことができません。
この度の深い潜行、
いつになったら浮上することが出来るのか、
自分でも分かりません。
ブログの再開どころか、
趣味の写真を撮る事も出来ない元所であります。
来春には仕事も落ち着くと思われます。
長い冬を越えたら再開したと思っています。
寂光