冬寺 [寺景]
〔01〕
〔02〕
一月十一日(土) 撮影
文字を写真に撮る。
そのようなことが成立するのだろうか、
近頃自分の写真で引っかかる問題であります。
そもそも文字を写真に撮るという行為、
写真の被写体として文字は成立するのだろうか。
また、文字を写真に撮るという行為に、
何か意味があるのだろうか。
そんな疑問を抱きながらも、
撮影に出掛けた先でこのような立派な文字に出会うと、
写真に撮る癖があります。
写真を撮る行為というのは自分の心の記憶を残すこと。
好きな神社仏閣を歩き写真を撮ることを重ねれば、
数多くの写真が記録されますが、
後にその写真を並べ眺めると、
これら文字の写真が、
他の写真と良い具合に馴染み、
佇んでいるように感じられるのです。
文字を写真に撮るという事を意識し始めたのは、
十年ほど前からでしょうか。
どの写真が最初の写真か今ではわかりませんが、
きっと何という事はない切っ掛けだったと思います。
さて、今日の文字の「寶物」、
善光寺の参道を歩きはじめ間もなく左手にある
「大本願」という寺院にありました。
実は善光寺には数十回訪れていますが、
ここ「大本願」に足を踏み入れるのは初めてでした。
実は今回の善光寺記事の写真、
最初の記事の一枚目の写真以外は、
ここまですべてこの「大本願」で撮った写真です。
慣れ親しんだ善光寺ですが、
此処では新しい気持ちで景色を見ることが出来ました。
前記事の池の中に身を落とした花の写真も、
二枚目の写真は池の中の塗料の水色が画面を覆っているのですが、
この場面でこの水色というのは、
これまでは好きでなく、
今までならきっとこの場面で写真を撮っていなかったと、
自分でも思いながら、
この朝はこの場面で写真を撮りました。
この時、
何かしら自分でも何かが違うと感じ取っていたのです。
それは、
一時的に失った視力が回復したことが影響していたのかもしれません。
単なる偶然だったのかもしれませんが、
今振り返ってみるとそのように思われます。
自分にとって何が「寶物」なのか。
写真を撮るという行為、
写真を撮る時間を与えられる、
その時間こそが何よりの「寶物」だと、
心の底から感じるとともに、
そのことに感謝する次第であります。